みちわたるしんたい[5通目]たべること、かえるところ | un / bared
2022.01.13 みちわたるしんたい

みちわたるしんたい[5通目]たべること、かえるところ

Illustration & Text : おざわさよこ

 あけましておめでとうございます。
 とは書いてみたものの、正月はもう随分遠くに感じられて、わたしも時間の伸縮というか、ねじれのようなものを感じています。特に年末年始には時空を飛び越えるような、かわった非連続性の感覚がありますね。

 家族というのは不思議ですね。血を分けようが何年一緒に暮らそうが、どこまでいっても別々の人間で、頼もしく思うこともあれば、どうしようもなく息苦しいこともある。

 年末年始はパートナーと一緒に少しだけ岐阜に帰りました。2018年ぶりの実家での年越しです。
 のぞみさんの実家は年越し蕎麦を食べますか。わたしの家では毎年31日に、必ず新潟は十日町の「小嶋屋」のざる蕎麦をいただきます。
 新潟には海藻をつなぎに使う「へぎそば」という蕎麦があり、小嶋屋はその生みの親だそうです。喉ごしは他の蕎麦よりつるつるですこし弾力があり、こくのあるつゆも絶品です。お店で注文すると、「へぎ」と呼ばれる四角い器に、小分けにされた蕎麦がくるっと折り返されて並んで出てきます。
 わたしの父は大学から20年ほど新潟に住み、わたしも生まれてから8年ほどを新潟市、その後1年半ほどを上越市で暮らしました。わたしの中で蕎麦といえばずっと新潟のへぎそばで、初めて十割の蕎麦を食べた時には「何だか茶色いしボソボソしてる…」と違和感を覚えたのを記憶しています(今はそちらも好物です)。
 わたしは思春期に入る頃まで父の仕事の都合で転校を繰り返し、大学も当時の地元であった岐阜から離れて京都にゆき、いまは流れ流れて富山に住んでいて、「ふるさと」がどういうものなのかよくわかりません。話す言葉も食べるものも色々な土地のものが混ざってしまっていて、自分でも整理がつきません。
 そのことがずっと自身のアイデンティティに大きな影響を与えている気がします。いつもどこか足元が浮いているようで、自分を糸の切れた凧のように感じるのです。ふわふわと浮かんでいる空気の中にはいつも、自由な気持ちと、うっすらとしたさみしさのようなものが漂っています。
 
 実家に帰った一番の目的は、やはり祖母に面会することでした。1月2日の施設のこじんまりとした暖かい部屋の中で、祖母は寝息を立てて眠っていました。母が大きな声で「さよこが来ましたよ!」と話しかけてもなかなか目が覚めず、揺さぶられるその身体は、わたしが知っている頃よりふた回りもみ回りも小さくなったようでした。
 わたしが手を握っていると目が覚め、「ああよかった、あなたがくるって、きのうきいたのよ」と、口元に耳を近づけないと聴きとれないような声で言いました。
 「今日はなにもなかったから、本屋さんへいったの。とーってもかわいい本があったのよ」
 外に出られるわけもないのに、そう教えてくれました。それからまた、「ああよかった」と繰り返して、再び眠りの世界に戻っていきました。
 祖母はもうほとんどまぶたを開きませんし、最近は食事もあまり摂らないようです。でも彼女がああよかった、と思える人生を生きられたのなら、その中にほんの少しでもわたしがいられたのなら、よかったなあと思うのです。握った手のあたたかさ、歳をとって食べることができなくなったいきものの皮膚の薄さ、骨のかたちを何度も反芻しています。

 家族はむずかしいし、わたしにはふるさとはわからないけれど、両親と年越し蕎麦を食べるために、人生を閉じようとしている祖母に会うために、弟夫婦やその子どもたちと笑い合うために、パートナーと毎夜食卓を囲んで語らい抱き合うために、彼らのいるところへ帰る。いつもきっとどこかに帰る場所がある、ということだけは、ふわふわ漂うわたしの胸にちいさく灯りをともすのです。
 お姉さんのはじめてのお子さんが、健やかでありますように。

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