ただの青い海|『海をあげる』(上間陽子) | un / bared
2022.02.15 読書感想文

ただの青い海|『海をあげる』(上間陽子)

海をあげる

Text : Nozomi Nobody

 先月下旬、姉にはじめての子どもが産まれて、わたしははじめて叔母という生きものになった。今月に入って少しの間、わたしは彼女たちの住む和歌山の、海沿いの道路から少し入って段々畑の間を縫うように細い道をくねくねと上った先、集落のはじっこにある昔ながらの平屋で一週間ほど、お乳の香りで満たされた穏やかな時間を過ごした。

 そうしてだけど東京には飛行機で50分足らずで着いてしまい、すっかり腑抜けたわたしにはいつもの生活が待っていた。当たり前にすぐに順応して、でもやっぱりどこか所在のないまま日々を過ごしていて、そういうときにはそういう自分の空洞をなにかしらで埋めなくてはという意識が働くから、それは大概の場合てっとり早い食べものであったりときどきアルコールだったりするわけだけど、その日は言葉が欲しくなり、帰り道に駅前の本屋に寄った。チェーンの小さなその書店をたぶんわたしはあまり好きではない。いつも帰り道に通るからという理由だけでときどき立ち寄るけれど、わたしが欲しい本は置いていないことが多いし、なんていうかあまり丁寧な感じがしないから、なんていうか、本当に、本が置いてあるだけのただの本屋、という感じの本屋。それでもわたしは本を必要としているから懲りずにまたその書店に行き、単行本と文庫本の棚をしつこく二周して、伊藤比呂美さんと町田康さんの対談集を手に取りレジに持っていった。そうしてお会計の前に見つけられなかった「『海をあげる』はないですか」と聞いた。パソコンの画面を覗きながら若い女性の書店員に「〇〇は〇〇だから〇〇なんだよねー」と大声で話していた中年の男性の書店員は「海を、、、??」と言うので、わたしは「海をあげるです」と言い直す。そうして検索をかけたらしいその書店員はしばらく画面と睨めっこしたあとで「あぁ、これかこれか、ぱっと出てこなかった」とわたしに聞こえる声で呟いてから小走りでカウンターから出ていき、上間陽子さんの『海をあげる』を持ってきてくれた。わたしはスーパーでも本屋でも目的のものを見つけるのが苦手だから、これまでないと思っていた本も本当はいつもあったのかもしれない。

 海をあげるを読みながら、わたしは四度泣いた。一度目は、わからなくて、だけどわからないままに苦しくて、そしてその苦しさこそが本当なのだと思って泣いた。二度目は、元山仁士郎君のことが書かれた章を読んだとき、わたしは仁士郎君が辺野古の県民投票を求めてたったひとりでハンガーストライキをしたことをニュースなどで見て知っていた。そして去年、ご縁があってオンラインミーティングなどで一緒になることが度々あり、一度ご本人にお会いする機会もあった。上間さんが書く当事者の立場から見た辺野古、県民投票、そして仁士郎君がいろんなものを背負って敢行したであろうハンガーストライキ。わたしは元山仁士郎というそのひとに会ってもなお、どれだけの想像力を持って、沖縄の抱える問題を知り、向き会おうとしただろうか?そのことを自らに問い、独りよがりの自責の念で泣いた。三度目は、今日の午後。きのう久しぶりに遅くまで一人で酒を飲み、どうでもいいような菓子パンなどを暴食してからベッドに入ったせいで今日は昼過ぎまで起きられず、目が覚めたあともしばらくベッドの中でずるずるとiPhoneをスクロールしていた。Facebookを開くと、奄美大島に住む知人の投稿で嘉徳海岸の護岸工事がいまにも始まろうとしていることを知る。数年前のひと夏を奄美で過ごし、いまでは第二の故郷のように思っている場所で、わたしの友人知人の多くも声を上げ、その豊かで貴重な生態系と美しい海を守るために工事に反対する活動を画面越しに見てきた。“手付かずの自然”が多く残るとされる奄美の地でも確実にたくさんのものが失われていて、残されているものさえもさらに壊され奪われようとしている、その現実を突きつけられてどうしようもない気持ちになった。
 iPhoneの充電が切れそうになったのでようやく起き出し、白湯を飲みながらぼんやりと窓の外を眺め、嘉徳についてSNSや日記に書くなどをして、またしばらくぼーっとして、読みかけの海をあげるを手に取りページを開けば辺野古に土砂が流し込まれたその日のことが書かれており、嘉徳のことも重なって、たくさんの、無下にされている想いや声を思って泣いた。そして四度目、あとがきを読みながら泣いた。

 あとがきのはじまりはこうだ。

 青い海が赤くにごったあの日から、目の前で起こっていることをぼんやり眺めるような日々でした。沖縄の暮らしのひとつひとつ、言葉のひとつひとつがまがまがしい権力に踏みにじられるようななかにあって、書くことになにか意味があるのかと逡巡するような時間でもありました。

 「まがまがしい権力」という言葉が重々しく胸に刺さった。

 今日わたしが自分の日記に書いた一部をそのまま引用する。

 嘉徳だけに残された豊かな生態系を壊し、美しい景観を壊し、目先のちっぽけな利益を求める、そこから生まれるものはいったいなんだろう。

 国民の8割が反対しているといわれた東京五輪も、世論調査で6割以上が賛成しているのにちっとも進まない同性婚も、夫婦別姓も、入管問題も、貧困も、暴力も、差別も、なにもかも、わたしたちはなんでこんなに何度も何度も無力を突きつけられなくてはいけないんだろう。その背後にあるものは、この大きな力はいったいなんなのだろう。

 これらのことはぜんぶ、この間に潰れていったライブハウスや飲食店、上がり続ける消費税、上がらない賃金、苦しく窮屈になる暮らしや社会、そういったものとぜんぶぜんぶ地続きで繋がっている。

 わたしはもう二度と、「わたしは無力だ」「わたしたちは無力だ」と思いたくない。そしてそんなことを思わせる社会で暮らしたくない。

 あとがきの締めくくりはこうだ。

 この本を読んでくださる方に、私は私の絶望を託しました。だからあとに残ったのはただの海、どこまでも広がる青い海です。

 託された絶望を、わたしはどうしようか。この何年もの間、嫌というほど思い知ってきた「どうにもならなさ」「どうにも出来なさ」のそのやり場を、どこに見出したらいいだろう。

 上間さんがご自身の小さな娘にいつか「渡す」であろう「海」に「絶望が織り込まれていないように」と願うように、わたしも産まれたばかりの小さな小さな姪や、友人知人の子どもたちに渡す「海」が、どこまでも広がる、ただの、美しい青い海であることを強く強く願っている。

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