みちわたるしんたい[6通目]灯油ストーブと豆餅の巡り
Photography & Text : Nozomi Nobody
Title Lettering : おざわさよこ
ここ数日、東京は嘘のように暖かい日が続いています。久しぶりに部屋の窓を開けて過ごしました。少しずつ春に向かっているのでしょうか。
何から書いたらいいのか…あまりにもたくさんのことが同時に起こり過ぎていてざわついた心のままずるずると日々が過ぎています。引き裂かれるような気持ちになりながら、それでもいろんなことを知ろう、考えよう、出来ることを、という気持ちを持ち続けて、同時に目の前の自分の日々もちゃんと大切に、地に足を着けて過ごさなくてはと自分に言い聞かせています。
さて、すっかりお返事が遅くなってしまいました。わたしの実家では年越し蕎麦を食べる習慣がなくて、いつも年末にお蕎麦屋さんの前ののぼりを見かけては「よその家ではみんなお蕎麦を食べているのだな」と興味深い気持ちで通り過ぎてきました。
二十代前半、音楽関係の制作会社で働いていたころにイベントの仕事で年に何回かハワイに行っていたのですが、宿泊先のホテルの側にへぎそばのお店がありました。それがわたしの持つ唯一のへぎそばとの繋がりです。可笑しいですね。お店には何度か行ったのですが、仕事後の遅い時間に行くことが多かったのでへぎそばは食べることのないままだったような気がします。新潟のものだということも海藻がつなぎだということも、初めて知りました。今度新潟に行くときにはへぎそばのお店を探してみよう。
おばあさんの話、一昨年亡くなった父方の祖母に最後に会ったときのことを思い出しながら読みました。わたしの祖母も亡くなる前の数年は同じような状態でした。ほとんど骨と皮だけになった青い血管の浮き出た細い手を、わたしもふとした瞬間に思い出すことがあります。
姉の子どもは一月の末にどうにか無事に産まれて、二月のはじめに一週間ほど彼女たちの住む和歌山に行ってきました。わたしにとっての初めての姪はそれはそれは小さく、それはそれは可愛くて、自分が産んだわけでもないのに血が繋がっているというだけでこうも可愛く思えるその不思議について姉と話したりしました。
彼女たちの住む古い平家の居間には昔ながらの大きな筒型の灯油ストーブがあって、その上でお湯を沸かしたり、豆や野菜を炊いたりしました。
長野の父の実家にも以前、同じようなストーブがありました。祖母も祖父も健在でまだ元気だったころ、毎年お正月に祖父の「工場(こうば)」と呼ばれる仕事場で親戚みんなが集まって餅つきをしました。何台も置かれた無骨な機械に混ざってたしか窯があったのだと思いますが、いくつも重ねた大きな鍋からもくもくと立ち昇る真っ白い湯気に朝の光が差して、きらきらしていて、餅米の炊き上がるにおいがいっぱいに広がってーー懐かしいなあ。祖父、伯父、父が順番に餅をつき、祖母、叔母、母が順番に餅を返し、そしてわたしたち子どもチームもときどき交代で参加しました。いまこうして振り返ってみると、なんて贅沢な時間だったのだろうと思います。
つき上がった大量のお餅をのして切るのは祖母の役目だったと記憶しています。ある年、白い三角巾と割烹着を着けた祖母が、たたみ半畳くらいでしょうか、大きなまな板いっぱいにお餅をのし、お蕎麦屋さんが使うような大きな包丁で切る様子を隣で見ていると、「のんちゃん、食べるか」と言って出来立ての豆餅をストーブでさっと焼いて差し出してくれました。わたしは確か小学校低学年くらいだったと思いますが、子どもながらにその素朴で豊かな美味しさに感動したのをよく覚えています。
和歌山でも、出産祝いにいただいたお餅の詰め合わせをストーブで焼いてみんなで食べました。祖母が焼いてくれたのにとてもよく似た豆餅も入っていて、わたしはそれを懐かしい気持ちでいただいて、すぐそばにはすやすや眠る産まれたばかりの小さな命があり、あぁ繋がっている、巡っている、とひとり感慨深い気持ちになりました。
ウクライナの地下の避難所で産まれた赤ん坊の写真を見ました。とても美しい顔で目を閉じて、眠っていました。どんなときでも、こんなときでも、当たり前に日々が続いていくように、産まれくる命があり、死にゆく命がある。その生も死も、どうかどうか、なにに奪われることなく、穏やかで健やかであってほしいと、ただただ願うばかりです。
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